日本のHR/HMを永く牽引している寺沢功一を父に持つベーシスト寺沢リョータに今回は迫る。自身の音楽体験からバンド活動まで沢山語ってくれた!そのため一つに収まりきらないボリュームだったので二つに分けて掲載。
Part 1として音楽への目覚めからベーシストとして現在に至るまでの活動をどうぞ!
父親がプロのミュージシャンということで、音楽が身近にある環境だったと思いますが、最初に衝撃を受けた音楽は何でしたか?
寺沢リョータ:物心がつかない小さな頃から父親の音楽に触れていたんです。それで最初となるとSLYのKingdom Comeですね。2歳の僕がKingdom ComeのPVを見ながら「SLY~」と言いながら頭を振り、腕を振り回して歩き回っているホームビデオが残っています(笑)後々そのビデオを見て、この時からもうロックに狂ったダメなやつだなと、父の血を濃く流しているなと思いました(爆笑)
この時腕を振り回していたので、この年齢でドラムに興味があったのかな?と思います。しばらくは何か叩いて遊んだりとかが好きでしたしね。
それで幼稚園ぐらいの時に父親がドラムスティックを買ってくれたんですよ。それが何故かファンキー末吉さんモデルで。これ太くて滅茶苦茶重いんですよ(笑)それに「てらさわりょうた」って平仮名で名前を書いてくれて、僕はそれで適当にダンダン叩いて遊んでいた記憶があります。
友達はウルトラマンとかスーパー戦隊、仮面ライダーなどのヒーローものが好きだったので、僕もその主題歌をずっと聴いていました。僕が初めて聴いたのはウルトラマンティガ!部屋の隅っこでイヤホンを耳にしてちょこんとしているホームビデオも残っています。やっぱりこの頃から既に音楽に興味があったのかな?
小学校の4年生くらいにロックに目覚めたと思います。親は小さい頃からずっと車のステレオで、QUEENとかをずっと流していたみたいなんです。この時は何も興味が湧かなかったけれど、ドラマ(木村拓哉主演のPRIDE)の主題歌でQUEENが流れていて「凄いカッコいいこの曲!」と一気にロックにのめり込みました。親にねだって当時発売されたベスト盤のJEWELSを買ってもらってずっと聴いていましたね。
それからはテレビとかで流れている一つ一つの音楽に興味が向くようになって、「何でも鑑定団で流れているカッチョいい曲はQUEENなのか?」と親に聞いたら「THE BEATLESのHelp!だよ」と教えてもらい、「THE BEATLESカッコいい!」となるわけですよ。もうずっと音楽を聴いていたくて、親にiPodのShuffleをねだって買ってもらい、QUEENとTHE BEATLESだけを入れてもらって小学校の間はずっとそれだけを聴いていましたね。この時はQUEENとTHE BEATLES以外は偽物と思うくらいに夢中でした。JEWELSなんかは曲の流れも最高で、最後にBohemian Rhapsodyでアルバムが終わるんですよ!
そうやっているうちに何となくベースやりたいなと思うようになって。それ以前に父親の叩く手拍子を聴いて、その裏拍に合わせて手拍子を叩くというリズムの遊びを教わってやっていたんですね。
既に英才教育が始まっていたと!
寺沢リョータ:今思えばそうですね。これのお陰で裏のリズムを取れるようになったと思います。他には最初ドラムの8ビートの要領で右手(ハイハット)、左手(スネア)でテーブルを叩く遊びだったのが、「足(バスドラム)を混ぜてみろ」と8ビートのドラムのパターンを教わったときに、体力に自信がないし運動も苦手だったから自分にドラムは無理かなと思ったんですね。逆にベースだったら父親に教えてもらえるし、と思って父親にベースが欲しいと話をしました。それでフェルナンデスへ連れていってもらって……
楽器店じゃなくていきなりフェルナンデスですか!(笑)
寺沢リョータ:父親がBLIZARDの時にフェルナンデスのベースを使っていたそのツテを辿ってです。その場にあったパーツで適当に組んで、ミディアムスケールの小さいベースを作ってもらいました。昔から恥ずかしがり屋なので、当時は楽器を持って歩いているところを友達に見られたくなくて、スカした感じがして恥ずかしいと思っていたからなんですけど、買ってもらったベースを親にずっと持たせて家に帰りました(笑)
帰っていざ練習しようとなって、父親にベースの持ち方や構え方なんかを教わって、その時に初めて練習したのがDEEP PURPLEのBlack Night。ずっとこの曲を練習していました。確かこの時から「耳コピをやれ!」と言われていて、1秒流しては巻き戻し、というのを繰り返して練習していました。
それでやっぱりQUEENのI Was Born To Love Youがやりたくって、練習を始めるんですけど滅茶苦茶難しくて。それでベースが嫌になって触らなくなっちゃったんですよね。それで親に対して辞めてしまったことを申し訳ないなと、父親が怒っているんじゃないか?と思うようになって、そういう気を使うのもあって益々ベースから遠のいていきました。ベースは部屋の隅っこでカビ臭くなって(笑)
この時は父親に対する後ろめたさと、ベースをやりたくない気持ちで複雑な思いでしたね(苦笑)
弾いていたのは小学校の高学年くらいから始めて、中学生になったくらいまでだったと思います。
ベースを始めた頃から父親のライブによく行くようになっていたんですよ。最初は親に無理矢理連れられて嫌だなぁとか思っていたんですけど(笑)
中学生になって音楽に目覚める第二のキッカケがあったんです。母親にBOOWY(二つ目のoはギリシア文字のファイ)を教えてもらって、丁度同じ時期に友達がギターを始めたのをドヤ顔で話してきたんですよね。こっちも小学生の頃からベースやってるし!とか張り合って(笑)とか言いながらもう辞めてるんですけど(爆笑)
これがまたベースをやるようになったキッカケですね。相変わらずBlack Nightしか弾けないけど(笑)
そしてBOOWYの曲を練習するようになって、わからないところは父親に教えてもらったり。ここからはずっとベースにのめり込みっぱなしですね。今ベースをやっているということで一番影響を与えたのは母親だと思います。最初は父親だったと思うんですけど、母親と音楽の趣味が合うんですよね。BOOWYもそうだし、EARTHSHAKERを教えてもらったときは何だこれは!カッコいい!と直ぐ好きになって。EARTHSHAKERは歌を歌って、BOOWYはベースを弾くという感じでした。
初めて一曲まるまる弾けるようになったのはNo New York。「シャワーを浴~び~てぇ♪」ってずっとエイトビートでカッコいい。(と、ベースフレーズを口ずさむ)
BOOWYの他の曲も練習したいとベース熱が上がってきたときに父親から「一つのバンドだけをやるんじゃなくて、他のバンドの曲もやった方がいいよ」と言われて、その時またロックに目覚めてKISSも聴いていたのでRock And Roll All Niteを練習しました。昔からOSAMU METAL 80Sを見ていたんですけど、当時はいつも最後にこの曲をやっていたんです。あの曲はKISSの曲ということを知り、母親に薦められてKISSのアルバムを買ってもらい、カッコいいなあと聴いていたんです。こんなにカッコいいバンドがいたのか!と、それからはとりあえず半音下げにたらKISSって感じで(笑)
やっぱりこの中学生のときがある種の転換期ですね。ベースにしてもずっとBOOWYばかりやっていたのでエイトビートの感覚は養われたように思います。この時も聴く音楽は片寄っていて、BOOWY、KISS、EARTHSHAKERばかり(笑)
中学の文化祭でバンド演奏出来るとなったときに、他のメンバーは「hideやりたい」とか「the Gazetteやりたい」と言っていて、それでも僕はNo New Yorkをやりたいと言っていたんですけど「それは何か違う」と言われてガックリしましたね(苦笑)
こういう結果にこの時はなっちゃったけど僕の周りには音楽好きが集まっていたので、僕がBOOWY良いぞ!KISS良いぞ!と言うと皆聴いてくれてそういうのを広めていましたね。
そうすると皆段々音楽にハマり始めて、その時生徒会に入っていたんですけど、生徒会のメンバーでバンドをやろうという話になったりとか、ベースをやりながら面白いことをやりたいと思うようになりました。
この時も以前に父親に教えてもらった耳コピをすることだったり、持ち方なんかを意識して練習していたのが役に立って、それが今に繋がっているなと思います。
高校生に上がってからは聴く音楽の幅が更に拡がってPINK FLOYDやIRON MAIDEN、JACO PASTORIUSとか、それまで洋楽ばかり聴いていたのが日本の音楽も聴くようになって。今まで父親が聴いてきた音楽を同じように聴いてきたけど、この頃から父親が聴いていないようなサイケデリックやプログレのような音楽も聴くようになって、母親の影響でもあるんですけどあがた森魚さんとかあの時代のフォークを聴いてましたね。父親はCARPENTERSとかIRON MAIDEN、KISSが好きで、僕も好きなんですけどここで父親との差別化というか、父親と被らない自分の好きな音楽を独自に見つけることが出来たと思います。
最近もはっぴいえんどを聴いていて日本クサさというか、日本人がやっている海外とは違うロックの良さを感じているんです。そのことが父親と自分のベースのニュアンスの違いであったり、僕自身歌をやりたいと思うようになった理由の一つだなと思っています。
高校で父親とは違うベースプレイヤーとしての道を進むようになったと思いますね。
同時に父親の仕事に対する興味が湧いてきてライブには殆ど付いていくようになり、セッションを良くやるようになりました。八王子にファンキー末吉さんがやっていたLive Bar X.Y.Z.→Aというところがあって、その時元ANTHEMの福田洋也さんや元筋肉少女帯の太田明さんのセッションに一人で乗り込んだりして段々度胸が付いていったと思います。
共演された方々は寺沢功一の息子ということを知っていたんですか?
寺沢リョータ:多分知っていたと思います。父親もX.Y.Z→Aのセッションに参加していましたし、父親が出るときに僕も付いていったりしていたので。そのお陰で皆さん快く受け入れてくださってたので行きやすかったですね。
ここでのセッションがキッカケで18歳ぐらいの時に初めてお仕事をいただきました。女性アイドルの椎田理加さんともう一人の女性シンガーさんのアニソンカバーイベントで、因みにその時のドラムが中川翔子さんのバックで叩いているまっしょいさん(山内優)でしたね。この時初めてギャラをいただいて、これがギャラというものか!と感激しました(笑)
この時期に色々セッションに参加させてもらったお陰で沢山の曲を覚えることになり、自然とベースの糧になったと思います。
また西荻窪のバーでQUEENのセッションがあると聞いて、父親に話したら「俺も行く!」と言い出して(笑)本当に一般の方々が集まる普通のイベントだったんですけどね。受付で名前を書かなきゃならなくて、『寺沢リョータ』『寺沢功一』と書いたら誰かが「寺沢功一がいるぞ!」とざわついて(笑)その時はDEEP PURPLEのセッションもあったので父親はそっちに出て、僕はQUEEN。終わった後にはダメ出しを受けました(苦笑)
この頃はセッションに参加して何かしらお仕事をいただく、という流れでしたね。あとは父親の仕事に良く付いていって、浜田麻里さんのレコーディング現場だったり、EARTHSHAKERのSHARAさんがやっているmintmintsのリハーサルも見学させていただいたりしていました。
それでmintmintsのドラマーの向山テツさんがリハーサル終わりの飲みの時に「ベースをやっているならmintmintsのこの曲を覚えてきなよ」と仰って。それを聞いて父親も僕にやれるのか心配していたみたいですけどね。それで僕はいつも通りに曲を覚えてリハーサルに行き、皆さんと合わせたら帰りにまた課題曲をもらい、練習して次回も参加したら、その時の僕のベースが良かったみたいで褒めてくださったんですよ。SHARAさんも同じような感じで、sun-go☆さん(五十嵐美貴、SHOW-YAのギタリスト)はそんなじゃなかったかもしれないですけど(笑)
しばらくしていたらテツさんが企画されているテツNIGHTというイベントのプレイベントに誘われました。元々は父親が出る予定で、そのリハーサルに仕事の関係で出られなくなったときがあって、その時に「息子をトラ(代役)で入れれば?」と父親が言われたみたいなんです。それで僕に「大変なことになったぞ!」と言われたんですけど、こっちとしてはマジかよ!と驚きしか無かったですね。しかもいくつものセッションに参加予定だったので曲数も多くて、その時は楽譜も読めなかったので必死に覚えてバイトしながら、半分寝ながら必死に練習したような気がします(苦笑)
リハーサルに行ったらTENSAWのグリコ(富岡義広)さんがいるわ、THE YELLOW MONKEYのANNIE(菊地英二)さんがいるわ、聖飢魔IIのルーク篁さんがいるわでプレッシャーが半端なかったです。テツさんのお店でワイワイ飲んでいて、僕もちょこんと座って適当なフレーズを弾いていたら矢沢永吉さんのバンドにいた山本圭右さんがギターで合わせてくれて、ANNIEさんもドラムで入ってくれて皆で一緒に合わせてくれたんですよね。その時は確か藤本泰司(TRICK、D.T.R、ex-DANCER)もいらっしゃったような……。でもこれで少し緊張がほぐれたと思います。
一通り弾いてお疲れさまですと挨拶して帰った後に、皆さんで「息子で良いんじゃね?」という話になったみたいで、後で父親に「本番は息子の方を出させる」と連絡が来て僕もイベントに参加させていただくことになりました。
今振り返っても自分の人生の転換となった出来事だと思います。
この時のことが皆さんに良い印象を持っていただいたキッカケだったのか定かじゃないですけど、本番3日間にも出演させていただいて、この時に初めてsun-go☆さんにも「ベース良いね」って褒めていただいて、それ以降sun-go☆さんのイベントにも声をかけていただくようになったり、テツさんがどこかでライブをやる時は見に行くようになったりしました。
扇田裕太郎さんというシンガーソングライターで、RED WARRIORSのSHAKEさんがやっているPINK FLOYDのトリビュートバンド原始心母に参加されている方なんですけど、その扇田さんと米米CLUBにもいた多田暁さんがやっているTHE DAY SWEETというデュオにテツさんがドラムで参加されていて僕に声がかかったんです。「酒飲んでベロベロに酔っ払ってジャズとか出来るか?」とテツさんに言われたんですけど、やったことないからわからなくて(笑)やれるかやれないかわからなかったですけど、やると答えて参加しました。この時はBob DylanやCreedence Clearwater Revivalの曲をやっていましたけど、当時既に活動していたTORNADO GRENADEみたいなメタルと正反対のブルージーな曲だったのでかなり勉強になりました。
テツさんやsun-go☆さんのイベントに誘ってもらったお陰で御二方それぞれの界隈の人達に知ってもらえて、自分のベーシストとして活動する世界が開けたような気がしますね。
テツNIGHTとか本当に沢山の一流ミュージシャンの方々が集まるので、そこで僕を知ってくれた人が他の現場で「てらちんの息子が結構やるんだ」みたいに話をしてくれていたみたいなんです。それで実力はともかく名前だけは拡がっていったと思います。
交遊関係が拡がったというところでは19歳、20歳ぐらいにはTORNADO GRENADEでバンド活動も始めていたので、父親世代の先輩だけでなく同世代のミュージシャンとも交流がありましたね。
この時のTORNADO GRENADEが初めて本気でオリジナル曲で活動したバンドでした。皆個性的で濃いメンバーが集まっていたと思います(笑)
最初は楽屋のマナーやレコーディング、スタジオをどう予約するとか活動することについて何も知らなかったし分かっていなかったです(苦笑)そこでお世話になったのが西川口HEARTSの原畠さんという方で、一から十まで教えていただきましたね。お金の工面とかそういうところまで(笑)
この時期はバンド活動するということ、ベーシストではなくバンドマンとしての生き方、考え方を学ばせてもらいました。それまではひたすらベースだけのことをやっていましたけど、ステージでのアクションだったりそういうことも考えていかなきゃならなかったので。父親からも「魅せ方考えなきゃダメだぞ!ベースの練習はいいから」と言われました(笑)ヴォーカルのJOE(塚本旭)は最初から素肌で革ジャンのあんな感じでしたけど、自分は髪も短くてただの少年だったんですよ。だから自分のルックスに暫く悩んでいましたね。お客さんからも地味と言われることも多かったし。このままじゃヤバいと思って好きなアーティストのファッションを真似したり、ベースを持ち上げるなどのアクションをやってみたり自分改革をしていましたね。
そういうことをやっていたら自分自身も変わってきましたね。元々内向的だったのが外交的になり、知り合いが増えてセッションやライブに呼ばれるようになりました。王様とかテツNIGHTキッカケで知り合って今でもライブに呼んでいただいているし、NATSUMETALでも一緒の實成峻さんのセッションも参加したり。實成さんのセッションの時は初めて5弦ベースを持たされて、色んなコードが飛び交う中でソロまでやらされたり、パフォーマンスにも悩んでいたところだったので色々と大変な時期でしたね(苦笑)
ライブビデオで自分のパフォーマンス確認して研究してきた結果20、21歳の頃には見られるようになったかなと思います。
振り返ると自分って凄く周りの人に恵まれていて、ほぼ一年毎に自分の世界を拡げてくれるキッカケをくれる人に出会っているんですよね。
一つ一つのことに対して真摯に取り組んでいった結果ということですね。
寺沢リョータ:そうですね、音楽のことしか考えていなかったので。その人達も僕の父親を知っているので僕に対しても「彼の息子」と一枚壁を外して接してくれるんです。これについては以前テツさんから「俺は新代田の親父だからな!」とまで言っていただいたこともあるので、父親には本当に感謝しています。皆さん元から温かくて親身な人達なんでとても助けられています。
そうは言っても音楽への取り組み方やプレイ、そしてご自身を気に入ってもらえないとこうはなりませんよ。
寺沢リョータ:それも一つの要素ですよね。
こんな感じでそれまでは未来のことまでは考えられなかったですけど21歳くらいからそういう余裕も出てきたのかなと思います。
丁度この頃にClassic Rock Jamに参加させていただくことになって、他のイベントもですが一年に一回くらお広いステージを経験させていただくようになり、少しは自信が持てるようになりましたね。
余裕という点では有名な方々と共演させていただくこともあるんですが、そこで尻込みすることは無くなったと思います。流石にDECAYSの時はMOON CHILDとDir en greyのメンバーが参加していると聞いて驚きましたけどね。
DECAYSに参加されたのはどういった経緯で?
寺沢リョータ:TORNADO GRENADEをやっているときに、DECAYSに関わっている会社のハラダさんという方が面倒を見ていたバンドと仲が良かったんですよ。そこで僕のベースを観てくれていたみたいで、大塚HEARTSでライブをしたときだったかな?急に「観に行きます」とメールが送られてきて、何があるんだろう?と不思議でしたね。
ライブが始まるとあまり埋まっていない客席の僕の正面に怖いおじさんが二人いて(笑)僕の方をずっと見てるんです。一人はハラダさんで、もう一人はMOON CHILDの樫山圭さんだったんですけどね。
その時の僕は演奏の調子が悪かったんです。折角ハラダさんが観に来てくれたのに……と落ち込んでいたんですけど、終わった後ハラダさんに会ったら「新しいビジュアル系バンドのプロデュースを彼(樫山)がやるんだけど、ベースを探している」と話されて、個人的には面白そうと思って二つ返事でした。というのもTHE BEATLESやQUEEN、BOOWYにEARTHSHAKERとKISSを聴いてきたので、ビジュアル系に馴染みがなかったからなんです。
因みにその時樫山さんとは初めましてだったんですけど、父親と仲が良いみたいでお世話になっています、みたいな話をしましたね。
後日メールをいただいたらDir en greyのDieさんの名前があり、樫山さん本人が参加されていて、中村中さんとAyasaさんの名前もあって、この中に自分が入るのか?と驚きました。皆さん名前が知られている人だったし、知っている人がAyasaさんしかいませんでしたからね。
でもさっき話した諸先輩方に温かく受け入れていただいた経験から「○○がいるから」という変な緊張もなく、気負いせずに取り組めたと思います。
最初は僕のベースを知りたいってことで7曲くらい送られてきて、樫山さんと二人でスタジオに入ったんです。これまで爆音を出す大人達と接してきたのもあって、特別意識してなかったんですがデカい音出してやりました。エフェクターも何も持っていかないでアン直でやりましたし、グリスで始まるような曲じゃないのに入れたりして自分はこう弾く!というのを見せたんです。一曲目の途中で樫山さんから「もういいもういい!お前で決定!」と言っていただいてから参加することになりました。
丁度この頃に父親がどこかのライブの帰りで新幹線に乗っていたとき、チラチラ見てくるおじさんがいたらしいんです。そこで話しかけてきたおじさんがハラダさんで、DECAYSの話をしていたらしく、決まったことを伝えたら驚いていましたね。
ハラダさんも樫山さんに「隣にてらちんがいる!」と連絡してこれは奇跡なんじゃないか?と思っていたみたいです。ベーシストの父親が隣で缶チューハイ飲んでいるんですからね(笑)これも運命だからリョータで行こう、となったみたいです。
レコーディングは曲を送ってもらった後に一度自宅で録ったものを送って、後日スタジオでちゃんと録るという流れでした。OKが出るまで3つの壁があって、先ずは父親、次に樫山さん、最後はハラダさん。三重の高い壁でしたね。ずっと寝ずにクラクラになりながらベース弾いて、父親が寝ているところ起こしたりしてそれに付き合ってくれて、そこから樫山さんに送ってダメ出しを受けてやり直すっていう。樫山さんからOKが出てスタジオに行ったら2日で終わらせてくれと、23、24の自分にとってはかなりハードだったのでその年の12月に出たこのアルバムはかなり思い入れがあります。
多分この時に初めて父親から自分のプレイに関してベースを教えてもらったと思いますし、自分のベースも変わったと思います。リズムの取り方を含めて一皮剥けたかなと。DECAYSの曲もクラブミュージックとかダンスミュージックという感じでしたしね。これがキッカケでダンスミュージックに興味を持つようになり音楽の視野が拡がりましたし、プレイについても他の楽器の演奏を聴いて、音の伸ばし方とか自分はどうプレイした方が曲が良くなるかを考えてやるようになりました。
ハードロックやメタルのベースはこういうものだ!とある程度決まっているところがありますけど、THE DAY SWEETの時にもっと自由に弾いて良いと気付いて、DECAYSで音の長さや間の重要性を知ったのは自分にとって大きかったです。
Dieさんにも影響を受けました。自分の魅せ方や雰囲気作りという点で学ばせてもらったと思います。この時70年代ハードロックが好きだったのでブーツカットのジーンズを穿いて、髪もボサボサに伸ばしていたんですけど「DECAYSっぽくない」ってことで沢山服をくださったんですね。そこで服装にも気を使うことを更に意識するようになりました。
やっぱり向山テツさんとDECAYSは音楽から考え方、魅せ方、ビジネスとして音楽をやることなど自分の世界を拡げてくれたので、この出会いがなかったら今の自分は無かったと思います。
鞭打たれてたまに飴もらうって感じで(笑)
DECAYSは今表立った活動が聞こえてこないですけど、何か動き始めていたりしますか?
寺沢リョータ:DieさんはDir en greyの活動で忙しいし、樫山さんも忙しくされているので今のところは何もないですね。
この前樫山さんと飲んだときには「またやりたい」ということを言っていましたけど。
そしてもう間近ですが11/23(土)にYokota Base Studioにて、お父様の寺沢功一さんと親子二人でのベースクリニックが開催されますけど、どのようなイベントになりますか?
寺沢リョータ:元々父親の名に頼らず自分のベースでやっていくぞ!と決めて活動して来たんですけど、最近は考えが変わって父親と二人で何かやっていかなきゃという気持ちが強くなっていたところ、WHY SO NERVOUS(現在寺沢リョータが組んでいるバンド。詳細はPart 2にて)のレコーディングをこのYokota Base Studioさんでやっていたら横田さんから「親子でベースクリニックやってみない?」と提案されたんですね。やりたいと思ったので直ぐOKして、父親にも連絡したら「良いよ~」って帰ってきたので、ものの数分で決まりました(笑)
その後は集まってミーティングして、内容もスラスラと決まりましたね。
先ずは僕らのファンの皆さんに楽しんでもらいたいですね。ベースをしている人は勿論、やっていない人でも楽しんでもらいたい!また他の楽器をやっている人にもベーシストが何を考えてプレイしているのかを知ってもらいたいと思っています。そうすることでプレイの幅が拡がると思うので。
それと多分普通の親子トークもあると思います(笑)
フライヤーにもありますけど同じベースでも親子の違いとか、父親はアメリカンでカラッとしたタイプだけど僕はブリティッシュでジメッとしたタイプとかを聴き比べて欲しいですね。
それこそ同じ曲を親子それぞれで弾いてみるとか?
寺沢リョータ:そういうのもやる予定です。後はベースをやることに対する姿勢の話もやると思います。勿論テクニック的なことや曲に対するアプローチなんかも話しますよ。
さっき僕と父親は違うタイプのプレイヤーということを言いましたけど、でもやっぱり似ているところもあって、以前テツNIGHTで父親と二人並んで出たときにキーボードの三国義貴さんから言われたんですが、父親→僕の順で同じ曲をやっていたら二人して同じようなフレーズを弾いていたらしくビックリしたみたいです(笑)
無意識に取り込んで来たものが一緒だったし、そういうものがある一方で進んできた道が異なるから違う部分もあるんだと思います。歌を歌うベーシストとベースだけをやるベーシストはそのプレイも違いますからね。父親は職人肌のタイプのベーシストですけど、僕は音楽を創っていきたいので芸術肌のタイプかなと思います。その違いも今回のクリニックで聴けますし、ある一個のスタイルが正解じゃなくてこういうスタイルもあるんだよ、ということを提示出来るんじゃないですかね。
自分達のファンだけじゃなく自分と同世代の人達にもこういうことを知ってもらいたいですね!
Part 2に続く。
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